県北西部、山に囲まれた中之条町に移住し、林業に従事しながらアート活動を続ける写真家がいる。廃校を利用した「イサマムラ」の創作環境にひかれ、移住を決意した糸井さんだ。海外生活の長いアーティストが、都会を離れて木こり生活を選んだわけをうかがった。
高校卒業後、渡米して写真学を学び、写真家の道へ。都内の外資系金融機関で働きながら作家活動を続けた後、中之条ビエンナーレを縁に移住。アート活動と両立できる林業に従事。2018年、「拝啓、うつり住みまして」展を主宰。
仕事のある日は朝5時には起きて弁当を作り、軽トラで現場へ。午前中の作業が終わったら森の中で食べる。ご飯がおいしくてすごく健康になりました。
雨の日は休み、日暮れが近づくと作業は終了。真夏でも夕方5時過ぎには終わるから、帰宅前にアトリエに寄って創作活動ができるんです。
今年の夏は、フィンランドに1か月滞在して写真を撮ってきました。日雇いでも働ける林業じゃなかったら、そんなに長い休暇は取れないですよね。
どの方向に倒すか安全を確認しながら慎重に行う伐採作業。うまくできたときは爽快だ。
林業を選んだのはなぜ?
都内では、日系企業で働いていた頃は残業が多く、ほぼ毎日終電でした。外資系金融機関に転職してからは時間の制約は減りましたが、制作する空間に制約があって、創作活動との両立はなかなか大変だったんです。
フィンランドの森の中で撮影した経験もあって、林業には以前から興味があり、2015年に宮城県で林業就業支援講習を受けていたこともきっかけの一つです。
職場は新橋だったので、疲れ切った60代のサラリーマンをよく見かけることがあって、山の中で元気に木を伐る70代の人と比べたら、同じ年を取るならこうなりたいな、と思って。
そんなことから、ここに住むと決めたときはハローワークで迷わず林業の仕事を選びました。3カ月森林組合に勤めて、その後、今お世話になっている親方に出会ったという経緯ですね。
林業の魅力は?
伐採した材木が、どこかで誰かの役に立つのが実感できるところですね。「この木は橋の材料にする」とか「家の柱にする」とか、使う場所や用途に合わせて指定の長さに切断します。以前のITの仕事では、実際に手がけた仕事の結果が目に見えず、実感が湧かなかったので。
林業は力仕事と思われがちですが、むしろ力を入れすぎると続かないんです。70代の高齢者でもやっているくらいですから、体力に自信がなくても案外だいじょうぶなんですよ。
現場によっては2週間休み無しというときもありますが、夕方には終わるし、自分の都合に合わせて休みをもらうこともできるので、創作活動と両立できるのが何といっても魅力です。
私の場合に限っていうと、仕事中の親方の写真を作品として撮らせてもらうこともあります。「木こり」のドキュメント写真です。普通の会社勤めだったら、そんなこと許されませんよね(笑)。
午前と午後に30分ずつの休憩時間。いろいろな現場を経験してきた親方の話は興味深い。
時には作業中の親方の姿を作品として撮らせてもらうことも。
町との縁はビエンナーレだとか?
アメリカでフォトジャーナリストなどを経て、写真家として活動を始めたのは約15年前。今までに国内外30以上の展覧会で作品を発表しました。作品の中にはヒューストン美術館に収蔵されたものもあります。
2年に一度開催される芸術祭「中之条ビエンナーレ」に初めて出展したのは2013年のことですね。その後も、中之条で出会った芸術家仲間とつながりを持っていて2015年にも出展しました。
移住前は、都内にアトリエを構えて創作活動を行っていたんですが、10畳あるその部屋は生活の場も兼ねていたので、大きな作品を扱うのに苦労していたんです。2016年に下見ツアーで町を訪れたとき、廃校となった小学校を貸し出す「イサマムラ」を見て、「ここだ!」と。
元図工室だった部屋は、広さも、机や備え付けの棚なども申し分なくて、私の創作環境に理想的。移住を決意したのは、一にも二にもこの場所が決め手となりましたね。
2017年8月に移住して、3度目のビエンナーレに出品する作品づくりにも、思う存分取り組むことができました。廃校となった沢田小学校を舞台に、教室の窓一面に大きく引き伸ばした桜の写真を展示して、春の卒業式を再現したんです。
撮影は大判フィルムで行うのが糸井さんのこだわり。スキャナーで取り込んで1枚1枚画像補正。このアトリエなら時間を忘れて集中できる。
中之条町はアーティストが暮らしやすい?
イサマムラは、現在3名の移住アーティストが利用しています。こんな素晴らしい創作拠点を町で用意していただき、本当にありがたいですね。
今は都内での個展に向けての創作を行っていますが、大判プリンターも置けるし、大きな作品を広げても十分な広さがある。教室の隣の準備室にはソファや蔵書を置いて、ちょっとした図書室のような使い方もしています。
今年の春には、中之条移住アーティストによる展覧会「拝啓、うつり住みまして」展を主宰しました。
2m×4mもの大判作品は中之条ビエンナーレ2017に出品したもの。
(上左・右)元の準備室には本棚やソファを置いてリラックス空間として利用。(下)元図工室の広いアトリエは大型プリンターも余裕で置ける。
移住に当たって迷いはなかったですか?
移住後の生活については、シミュレーションを繰り返しました。ある程度蓄えがあったので、生活が安定するまでは困らないだろうということと、都内まで日帰りできる距離で、買い物など日常生活に特段不便はない場所だということで決意しました。今は、インターネットさえつながれば世界中とコンタクトが取れる時代ですから。実は、スカイプを利用して海外への作品売り込み方のコーチングなどもしているんですよ。
移住・定住コーディネーターの村上さんが、親身にサポートしてくださったのもありがたかった。比較的新しい空き家を紹介してもらって、快適に暮らしています。
中之条町民の仲間入りはできましたか?
アート活動をしているというと煙たがられるかなと、ちょっと心配しましたが、みなさん親切にしてくださいます。なるべく地元になじもうと、道普請や地元の祭りにも参加していますよ。「まちなか5時間リレーマラソン」にもサラリーマンのコスプレで出場しました(笑)。英語ができるということで、インバウンド向けの観光資料の英訳や外国人観光客の通訳を役場から頼まれることもあります。自分にできることで町に貢献していこうかな、と。
ビエンナーレも回を重ね、芸術の町として定着してきています。アーティストが自分らしい暮らし方を見つけるのに、中之条町はぴったりではないでしょうか。
アーティスト仲間はもちろん地域の知り合いも増えてきたと語る糸井さん。
糸井さんの場合は、創作との両立のために日雇いの働き方を選んだが、通常は、森林組合や事業所に勤務する人が多い。中之条町では地域おこし協力隊でも林業従事者を募集。未経験者は「ぐんま森林・林業ツアー」に参加するのもおすすめ。
中之条町の移住・定住コーディネーターの村上久美子さんは、中之条町に嫁いできた移住者の一人。自分の経験を元に、住居探しや就職支援など親身に相談に乗っている。糸井さんのご近所へのあいさつ回りにも同行してくれたとか。